縄文人とカツオの関わりから始まった歴史シリーズも、前回で当店創業時の大正時代まで話が進んだ。
しかし残念ながら鰹節の話ばかりで宗田節の話は出ていない。
宗田節の話がしたい宗田節ブログでさえ、宗田節の歴史を語る前に8回に及ぶ鰹節の歴史を要したのである。
なぜか?
節の業界では鰹節が圧倒的一強で、宗田節は二番手三番手ですらないからだ。
鰹節の次に歴史が長い(記録が残っている)のは意外にも鮪節である。
国の統計として農商務省が残した明治22年の記録に鰹節と並んで鮪節が出ている。
それ以外の節は「その他」として括られ、大正11年になりようやく「その他」からサバ節とイワシ節が独立する。1
宗田節は依然として「その他」の中である。
現代においては農林水産省が毎年統計を出している水産加工統計調査なるものがあり、その中で「節類」として、かつお節・かつおなまり節・さば節・その他の4種がある。
現代においても宗田節は「その他」なのだ。
何とも悲しい現実であるが、記録が残っていないからと言って宗田節の歴史がないわけではない。
とは言え状況証拠だけで宗田節があったとも言い切れない。
家にある鰹節の本を片っ端から調べた結果、最古の宗田節の記録はなんと台湾にあった。
明治28年の日清戦争で台湾を植民地とした日本は、産業として鰹節や宗田節の工場を現地でつくっていたのである。
台湾では小型船でも漁獲できるソウダガツオは昔から馴染みの食材であり、鰹節以上に宗田節がつくられる下地があった。
台湾総督府殖産局の残した記録では、明治36年にソウダガツオの漁獲量が325t、明治43年には488tの漁獲量に対し、1/10の49tの宗田節の製造の記録が残っている。
この明治43年(1910年)の台湾での宗田節の製造記録が私の見つけた最古の宗田節の記録2である。
もちろん台湾の工場で宗田節が造られるくらいだから、それ以前から日本において宗田節がつくられていたのは間違いないだろう。
こういった周辺の記録から類推するしかないのは土佐藩統治下の鰹節の歴史に近いものがあるが、鰹節の場合は価値が認められ製法の秘密を守るために記録を残していない点で、宗田節の記録が残っていない点とは意味合いが異なっている。
従来、「宗田節の歴史は戦後から」と言われているのには理由があり、1つは土佐清水市において鰹節から宗田節に本格的に製造が移ったのが昭和30年代ということ、またそれまで目近節や惣田節など様々な名称で呼ばれていたのが日本鰹節協会によって宗田節に統一されたのが同時期である3というのがもう1つの理由である。
鰹節の陰に隠れ歴史に名前も残っていない宗田節ですが、今後も宗田節ブログでは宗田節の情報を中心に書いています。
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