鰹節の歴史~カツオと日本人~

宗田節の歴史と言いたいところだが、宗田節の歴史は戦後からとまだ浅い。

宗田節の歴史を知るためにも、ここ土佐清水ではその前身ともいえる鰹節の歴史について学んでみよう。

鰹節の原魚はカツオ。そのカツオと日本人との関わりは縄文時代までさかのぼる。

縄文時代は12000年前から2300年前までのおよそ1万年の長きにわたる。

7~8000年ほど前の縄文時代早期に、青森県八戸市の遺跡にて最古のカツオの骨と釣り針が見つかっている。

ここで現代のカツオを知っている人なら、

なぜ青森で?

と疑問がわくかもしれない。

カツオは今も昔も暖流の魚(日本では黒潮の魚)でそれは変わらない。

暖流が変わっていたのである。

というのも縄文時代の始めは最後の氷期の終わりにあたり、暖かくなり始めたころで黒潮の流れは悠々と北日本まで達していたらしい。

縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ばれ、現在より気温が2℃高く、海抜も4~5m高かった!

さらに3500年ほど前の縄文時代の終わりになると、釣り針にカエシがつくなど大型化して小舟も使用、遺跡も関東地方にまで広がりを見せるようになった。

ここまで東日本ばかりの話になっているが、縄文時代のカツオの骨の遺跡は西日本では鹿児島の西海岸の一か所だけしか見つかっていない。

その理由を解明する有力な説は、単純に人口が少なかったためのようだ。

そもそも縄文時代の人口は、中期の最も多いときで26万人ほどだったらしい。

そのうちのほとんど、25万人ほどが東日本に住んでいた。

遺跡は人々の生活跡であるから、西日本でカツオの骨が見つからないのも納得である。

次回、西日本の逆襲なるか?神話時代のカツオ編に続く!

(参考文献:宮下章.鰹節上巻.日本鰹節協会、1989)

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