今からおよそ200年前の1822年の諸国鰹節番付表です。
なぜ番付表?
この頃は相撲が最高の娯楽で様々なものが番付表にされていたようです。
最高位の東の大関の地位にあるのが土佐清水の鰹節(土州 清水節)。
当時はまだ横綱がありませんでした。
そしてこの地位の獲得に貢献したのが史上最大の節納屋「山城屋」です。
通常は豪商・山城屋と紹介されますが、ここでは史上最大の節納屋と表現したいと思います。
中浜で六代続いた山城屋の最盛期は三代目から四代目の頃。
傘下の節納屋は中浜港を囲むように4軒あり、本拠地は当社の敷地を含む場所にあったようです。
鰹釣り漁船を17隻所有し、鰹節を大坂や江戸まで運ぶ廻船も7隻所有していました。
さらには木炭や薪の生産もしており炭船も4隻所有、農産物も取り扱い、幡多郡内の砂糖の流通も取り仕切っていたようです。
中でも最大の廻船の名前が春日丸であり、そこから山城屋の鰹節は春日節と呼ばれ、土佐節のなかでも最高峰とされていました。
後の明治30年に開かれた第二回水産博覧会で、最初で最後の特賞にあたる名誉銀牌を受賞したのも鰹節の品質とともに功績が認められた証でもあります。
ではなぜ山城屋のつくる鰹節がそれほど高品質だったかと言うと、これにも印南の漁民が関わっています。
土佐清水で鰹節の改良を重ねた二代目甚太郎の弟の甚三郎の子孫にあたる儀三郎が、山城屋の二代目のときに鰹節の製造の技術顧問をするようになり品質が大きく向上しました。
その功績は息子の与三左衛門とともに山城屋の歴代当主と同じくらい立派な墓石で讃えられています。
こうして山城屋は「寺の坂から山城屋見れば、庭じゃ餅つく、茶の間じゃ碁を打つ、表八畳じゃ金かける」と歌われるほどの栄華を極めます。
現在の風景をお寺の階段より撮影してみました。
黄色の丸印の辺りが歌われた場所だと思いますが、2階建ての家が多く見えなくなっています。
しかし五代目のころから陰りが見え始め、六代目をもって終焉を迎えます。
四代目の早逝や今ノ山の伐採事業の失敗などいくつか要因はありますが、一番大きかったのは本業の鰹節製造のための原魚のカツオが近海で獲れなくなったことでした。
帆船で日帰り漁で獲れていた時代は終わり、動力船で沖合まで出漁し氷で冷やしながら何日も釣り溜めて帰港する時代に乗り遅れたのです。
これは山城屋に限ってのことではなく高知県全体の問題であり、動力化以降土佐節は減少の一途を辿っていきます。
かつての栄光を追い続けたというわけではなく、高知県にとってかわった鹿児島県には南西諸島、静岡県には伊豆諸島と沖合の好漁場があったのに対し、高知県にはなかったという地理的要因が影響していました。
200年以上もカツオを獲り続けたのですから資源量も減るでしょう。
その間には好漁も不漁もあったでしょうから、だんだん獲れなくなってきてもいつか好漁になると思い、動力化に遅れたのかもしれません。
現代のメヂカにも通じることかもしれませんね。
当社は山城屋跡地に建つとは言え、なんでも鑑定団に出すようなお宝はありませんが、当時を伝えるものはいくつかあります。
山城屋六代目の息子さんから何もなくなるのは寂しいからと、場所を移して世話をしている庭のソテツ
20年ほど前までは普通に使っていた裏庭の井戸
何より節造りの伝統や想いも、山城屋の跡地で創業した新谷商店の初代から受け継いでいきたいと思います。
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