先史時代から日本人に食されてきたカツオ。
700年代には煮た後に天日干しした干物や、煮汁を煮詰めた調味料も考案され、1500年代には囲炉裏の上で燻した鰹節の原型もできていた。
それからわずか100年足らず、1600年代に入り鰹節の進歩は加速する!
その担い手となったのが先のブログでも紹介した印南漁民である。
なかでも現代の鰹節の礎を築いたのが、印南漁民三人衆 とも称される角屋甚太郎、森弥兵衛、与一の三人…と言っても角屋甚太郎は親子で同名であり、正確に言えば四人である。
その功績はそれぞれ鰹節の発展とリンクしている。
鰹節の原型を改良し、煮熟・焙乾・日干・カビ付けに至るまでの工程を確立、親子二代で現代鰹節の完成へと導いたのが角屋甚太郎である。
その舞台となったのがこの土佐清水市(旧幡多郡清松村)の清水七浦と呼ばれた伊佐・松尾・大浜・中浜・清水・越・養老だった。
初代甚太郎は越に拠点を構えたと言われるが、入港した年については1619年・1651年・1666年と諸説ある。1698年に年齢不詳ではあるが亡くなったことが印南の寺に記録されているので、1619年説は年齢的にも厳しいと思われる。
江戸時代は封建制で各地の大名は自治を認められた一方で貢献物を納めなければいけなかった。
土佐では鰹節は最重要の貢献物であったため、その製法は秘中の秘であった。
そのため製法や人においても記録はほとんど残されておらず、伝承や墓石、位牌より推測する他ない。
国を越えての交流も厳しく制限されていたので、印南の漁民が1年のうち10ヶ月の間、土佐に滞在を許されたのはかなりの厚遇であった。
土佐清水で鰹節が発展したのも、製造に適した型と質の大量のカツオ群はもちろん、清水の名称の由来となった清廉な水と焙乾するための豊富な薪、土佐藩の強力なバックアップと人材がいたからに他ならない。
二代目甚太郎は初代甚太郎が土佐清水で結婚して生まれた土佐人であった。
焙乾法を確立し、大坂への輸送の障害であったカビによる品質低下を、あらかじめ良質のカビを付けることによって防ぐとともに風味の向上にも成功した。
こうしてすべての好条件がそろった土佐清水はその後200年以上も土佐節と讃えられた日本一の鰹節の産地として名を馳せたのである。
土佐人であった二代目甚太郎は正月を含む2ヶ月ほど紀州に帰る必要もなかったのだが、不幸にも帰省中の1707年に宝永の大地震による津波で夫婦ともに亡くなっている。
記録の残る日本最大級の地震でその49日後に富士山の大噴火も起こり、日本中が大混乱に陥ったことだろう。
森弥兵衛はこのとき薩摩藩の鹿寵(現在の枕崎)に渡り、土佐節の製法を伝えたとされる。
さらには与一が1781年に安房、1801年に伊豆へと製法を伝え関東の鰹節の評価を高めたが、秘伝を漏らしたことで二度と故郷に帰ることは許されなかった。
枕崎は現在の鰹節の生産量日本一を誇り、また伊豆から焼津へと伝播した鰹節は最高級品の本枯節の開発へと繋がった。
三人衆を筆頭とする印南漁民の功績は、いまなお鰹節業界に燦然と輝く金字塔である。
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