津々浦々とは至るところ隅々までという意味であり、津とは港、浦とは湾のことである。
津(港)も浦(湾)も地形的には端となるが、同時に海に囲まれた日本では入り口ともなる。
鰹節は海を渡り、津々浦々から全国に伝播したのである。
その担い手となったのが紀州漁民であった。
古代(400~1200年)から中世(1200~1600年)におけるカツオ漁の中心地は、東の駿河湾と西の熊野灘に分けられる。
どちらも黒潮の接岸地でカツオの好漁場であり、原始的な釣り漁法や網漁法で漁獲していたが、違いが出てきたのは近世(1600年~)以降からである。
東の中心・駿河湾では引き続きカツオが群集し、カツオ網漁の全国一の産地として江戸後期まで続いた。
ところが西の中心・熊野灘では、潮岬周辺を除いた地区で徐々にカツオの群れが減少してきたのである。
一方で天下の台所と言われた大坂や京や堺といった近隣の大消費地が発達し、需要は大きくなっていった。
そこで紀州の漁民は操船術を駆使して黒潮おどる洋上へ漕ぎだしたのだ。
戦乱期には熊野水軍として各地を転戦するうちに、地理や漁事情にも詳しくなっていたことも大きな後押しとなっただろう。
中世までの原始的な釣り漁法を一新させた紀州漁民の釣り漁法は、熊野式新漁法と呼ばれた。
カツオ漁における両者の違いを以下にまとめる。
原始的釣り漁法 | 熊野式新漁法(釣りため漁法) | |
人 | 全国の漁民 | 紀州の漁民 |
船 | 2~3人乗り | 12~16人乗り |
餌 | まずイワシ類をとって使用 | イワシ類は別日にとって生かし、釣り船に移して出航 |
カツオは生き餌しか食べない習性があるため、まずは餌となるイワシ類の漁をすることが肝心である。
従来ではイワシが獲れないとカツオ漁が始められなかったのが、新漁法ではその恐れがなくなったことに1つの特徴がある。
もう1つの特徴は、15人ほども乗れる大きな船で沖の漁場まで出漁できるようになったことである。
一本釣りでカツオを船上にたくさん釣り溜めることからこの大型船は釣溜船とも呼ばれ、熊野式新漁法は釣りため漁法とも呼ばれた。
この漁法が優れていたことは現代の一本釣り漁法も基本的には同じ構造であることからも明らかである。
こうして先述の天下の台所の大消費地の需要と大量のカツオの供給が合わされば、日持ちしないカツオの使い道としての鰹節製造の必要性が高まる。
カツオの需要と供給、さらにはその間の流通にのる製品としての鰹節、これらは三位一体となって発展して行くこととなるがこれを全国に広めたのが紀州漁民、なかでも印南(いなみ)の漁民であった。
印南はカツオ漁が盛んだったものの江戸以前からカツオが減少、潮岬で漁をするも地元漁民とトラブルとなりいち早く他の漁場を探す必要があったためである。
最新の漁法で全国の漁場にカツオの大漁をもたらした印南漁民は、同時に鰹節製造技術の伝道師でもあった。
次回、舞台はいよいよ土佐へ
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